出会うべくして出会う
コーエン兄弟という、映画史に名を刻む監督コンビがいる。
名匠と呼ばれる彼らの代表作のひとつ、『ノーカントリー』がYouTubeで公式に無料公開されていたのを見つけ、引き込まれるように再生ボタンを押した。
かつて配信サービスか何かで観た記憶がうっすらとあったが、改めて観直しても冷酷な殺し屋アントン・シガーの造形はやはり最強で、強烈極まりない。観終わったあと、なぜこの作品はこれほどまでに他の凡百の映画と一線を画しているのか、その異様な引力の正体を突き止めたくて調べ直し、そこで初めてこれがコーエン兄弟の手によるものだったと知った。
他の映像と何が決定的に違うのか。
突き詰めれば、それは「我慢」だ。
いまやスマートフォンひとつあれば、誰もが映像を撮れる時代になった。
だが、映像という表現は、我慢ができない人間には絶対に撮ることができない。
もちろんできるが、パニック映像しか撮ることはできない。
映像にも人間性、つまり「その人」が映るのである。
たとえば、ラーメンにカメラを向けるときを考えてみる。
早く口に運びたいという焦り。スープが冷めてしまうという恐怖。目の前で腕を振るってくれた職人に対して失礼ではないかという引け目。そして丼のすべてが魅力的だからこそ、どこをどう切り取るべきかという迷い。カメラを構えた瞬間、あらゆる雑念と「時間」そのものから猛烈な圧力がのしかかってくる。
映像とは、空間を切り取ると同時に「時間」を記録する行為だ。
だからこそ時間の圧力に負けた撮影者は、対象を信じきれず、不安を埋めるようにカメラをあちこち動かしてしまう。結果として残るのは、焦点の定まらないフラフラとした落ち着きのないカットの連続だ。
本質的に、動画を撮る際にカメラを無闇に動かす必要などない。
動かすとしても、意図を研ぎ澄ませたわずかな呼吸だけでいい。被写体が持つ本来の熱量と時間が熟成するのを、その場でじっと待ち続けること。
だが、たいていの人間は我慢ができない。
わずかな値動きに耐えきれず狼狽売りしてしまう株取引も、相手との沈黙に耐えかねて余計な言葉を重ねてしまう恋愛も、すべて同じだ。我慢ができないのである。
そして、続けて彼らの傑作『ファーゴ』を観始めた。
やはり、彼らは信じられないほどの我慢をしていた。
一面の雪景色の中、カメラは微動だにせず、ただ世界とその場に流れる冷徹な時間を凝視し続ける。語りすぎず、煽らず、動かさず。その極限まで張り詰めた「我慢」の先にしか立ち現れない本物の緊迫感が、そこにあった。
思えば、今回の出会いもそうだ。
自分が今まさに表現として求めているもの、次に進むために必要な「一歩先」の基準。思考を巡らせ、模索しているまさにそのタイミングで、まるで磁石に引き寄せられるかのように、目の前にポンと現れる。
ただの偶然と片づけるには、あまりにもこちらの求めている急所にピタリとはまりすぎているのだ。
無意識にアンテナを張り巡らせ、飢えながら進んでいるとき、世界はその人間が「次に出会うべきもの」を用意して待ってくれているのではないか。
出会うべくして出会う。
その不思議な巡り合わせの導きに震えながら、我慢の先にある表現の強度を、改めて自分の手元に深く刻みつけている。
