RAMEN DIARY

個人店の定義

Ramen Crazy

昨日、若き店主たちと話した。

その対話を編集し、メンバーシップに公開した。

編集台で素材を見返していて、ふと気づいたことがある。

我々は日頃「個人店」と当たり前のように口にしながら、その実、「個人店とは何か」を自分たちの言葉で一言も定義できていないのではないか、と。

だから、やる側も、受け取る側も、どこか足場が定まらない。

客は個人店に何を求めているのか。

店主は何を選び、何を背負って厨房に立っているのか。

そこを曖昧にしたまま、我々はどこか熱に浮かされるように「これからは個人店の時代だ」と語ってはいないか。

これは明らかに弱点だ。

だが同時に、最大の伸びしろでもある。

個人店の定義を、自分たちの言葉でつくること。

そこが定まって初めて、店主が何をすべきなのか、我々が何を記録し届けるべきなのかが、明確に見えてくるはずだ。

今、群馬県高崎市へ向かっている。

千円余計に払ってグリーン車に乗り、イヤホンでLUNA SEAを聴きながら、この文章を書いている。

個人店とは何か。

車窓を流れる景色を眺めながら、「バンド」という切り口で考えていた。

LUNA SEA、GLAY、L’Arc〜en〜Ciel、Mr.Children、B’z。

そして、ビートルズ。

彼らの中心にあるのは、お行儀のいい企業理念のような言葉でも、「音楽とは何か」という評論家じみた一般論でもない。

あるのはただ一つ、「自分たちの音楽とは何か」という問いだけだ。

何を鳴らし、何を鳴らさないか。

何を捨て、何を選ぶのか。

その執念の積み重ねだけが、彼らの音をつくってきた。

彼らは演歌をやらないだろう、と外野は思う。けれど、本質はジャンルの話ではない。

もし彼らが演歌をやったとしても、それは決して誰かの物真似ではなく、「俺たちの音」として鳴らしてしまうはずだ。何を選び、どう自分たちの生き様として表現するか。その態度(アティチュード)こそが、彼らを彼らたらしめている。

個人店も、まったく同じではないか。

我々が惹かれ、追いかけたい個人店とは、単に資本が小さい店のことではない。

店主が「自分たちのラーメンとは何か」という問いから逃げず、自分自身の頭と体で判断し、その答えを一杯の丼と日々の営みに叩き込んでいる店のことだ。

ラーメンは、丼の中だけで完結するものじゃない。

暖簾をくぐった瞬間の空気、厨房の立ち振る舞い、営業のやり方、発する言葉、そしてカウンター越しに客と結ぶ関係。そのすべてに、その店の思想が宿る。

答えなんて、最初から綺麗に決まっていなくていい。

迷い、試行錯誤し、ぶつかり合い、仲間とともに形を変えながら、それでも自分たちの足で歩み続ける。その無様な葛藤の過程そのものが、その店の「固有の味」になっていく。

自分たちの音と向き合うこと。

それは、何を一杯として出し、何を価値として手渡すのか、どんな方法でまだ見ぬ客と出会うのかを根本から問い直すことだ。

店主は「自分たちの何を磨き、何を育てるべきか」が分かる。

客は「この店が次にどんな音を鳴らすのか」を心から面白がれる。

そして――。

その店が何を背負い、何を悩み、どう歩んできたのかを間近で聞き、記録し、まだ出会っていない誰かへ純度を保ったまま手渡す仕事がある。

そこに、我々が絶対的に必要になる。

そう確信している。

個人店をやるとは、流行を追うことでも、誰かの正解をなぞることでもない。

「自分たちのラーメンとは何か」を問い続け、自分たちの意志で選び取り、その答えを店の営みすべてを使って客へ手渡すことだ。

少なくとも、我々が信じ、並走したい個人店とは、そう定義したい。

これが完成形だとは思っていない。

けれど、言葉を持たないまま「個人店の時代」を都合よく消費するわけにはいかない。

創り手にも、受け手にも、明日からの視界が拓けるような定義を。

我々が、無理やりにでも言葉にして打ち立ててやる。

LUNA SEAのギターソロを聴きながら考えているうちに、列車はもうすぐ群馬に着く。