RAMEN DIARY

ラーメン屋の仕事量

Ramen Crazy

ラーメン屋の仕事量たるや、半端なものじゃない。

まだ街が眠っている未明から寸胴に火を入れ、何十キロもの骨を割り、血を抜き、灰汁をすくい続ける。季節や湿度に合わせて粉の配合と加水率を変えて麺を打ち、タレの熟成具合を見極め、チャーシューの火入れに神経を研ぎ澄ます。そしてそれ以上の仕事を行うラーメン屋も増えてきた。

一杯の丼がカウンターに置かれるその数分間のために、バックヤードでは気の遠くなるような手数と時間が注ぎ込まれている。

その圧倒的な仕事量に対して、世の中へ届けられる情報発信量のバランスがあまりにも悪い。少なすぎるのだ。見合っていなさすぎるのだ。それを見ていると、こちらは居ても立ってもいられなくなってしまう。これこそが、我々が言葉を尽くし、カメラを回し、現場へ足を運び続ける活動の源泉だ。

仕事量と混同されがちなものに、「練習量」がある。「血のにじむような修行や練習のプロセスは、あえて表に見せないのが職人の粋であり美学だ」という意見なら、百歩譲って理解はできる。舞台裏の汗や苦労話をひけらかさない慎み深さを尊ぶ文化は、確かに日本にある。

だが、「仕事量」を発信するのを控えるというのは、まったく理解できない。

売っている商品や目の前のパフォーマンスが、どのような工程を経て完成しているのか。さらには、なぜその工程を踏まなければならないのか。その技術的・思想的な文脈が発信されず、誰の目にも留まらないまま消費されていくのを見ると、悲しくて倒れそうになるのだ。

職人が黙して語らなければ、その技術の背景にある試行錯誤や哲学は誰の記憶にも残らない。残らないということは、つまり、次の世代へ引き継がれていかないということだ。

仕事が引き継がれていかなければ、その仕事の未来はどこかで確実に途絶える。

この危機感を覚えるとき、頭に浮かぶのがウルトラマンやゴジラといった「特撮」の世界だ。かつて円谷英二をはじめとする先人たちが築き上げた、精巧なミニチュア、絶妙なピアノ線の操演、火薬と光学撮影の職人技。あれらは間違いなく世界に誇るべき膨大な仕事量の結晶だった。

その技術は現在まで受け継がれ、特撮作品は生み出され続けている。一方で、撮影に使われたミニチュアなどの貴重な資料が、廃棄・散逸してきたことも事実だ。須賀川特撮アーカイブセンターやアニメ特撮アーカイブ機構では、資料の収集・保存や修復、次の世代へつなぐための活動が進められている。作品が残っていても、それを作った道具や、作り方をたどるための資料まで、自動的に残るわけではない。残すための場所も、知識も、人の手も要る。その現実を考えると、仕事の記録と継承を、現場の善意だけに任せてはいけないと強く思う。

ラーメンもまったく同じだ。

「職人は黙って旨いものを安く出せばいい」
「わかる奴だけに伝わればいい」

そんな旧態依然とした美学に甘えて文脈の記録を放棄し、正当な対価を得るための発信を怠ることは、職人の美徳でも何でもない。単なる未来への怠慢だ。なぜその温度で出汁を引くのか。なぜその醤油でなければならなかったのか。その試行錯誤の軌跡を可視化することこそが、一杯のラーメンをただの「安くて旨い日常食」から、文化と表現の領域へと押し上げ、健全に稼ぎ続けられる産業へと昇華させる柱になるのではないか。

翻って、我々自身の現実はどうか。活動の量も、質も、まったく足りていない。それは火を見るより明らかだ。

これまでのように身体ひとつで現場に飛び込み、ひたすら時間を削って食らいつく体当たり密着取材には、どうしても限界がある。特にコストパフォーマンスの面で、物理的なリソースはすぐに底をつく。全国無数にある名店の厨房で、今この瞬間にも途方もない手数と熱量が費やされているというのに、足で稼ぐだけのやり方ではその何分の一も拾い切れない。

だからこそ我々は今、活動のギアを大きく切り替えている。がむしゃらに身体を張るだけの取材から、「頭を使い、構造で捉え、仕掛ける」活動へのシフトチェンジだ。

どう切り取れば、職人の膨大な手数を普遍的な文脈へと昇華できるか。どう発信すれば、消費されて終わる刹那的な情報ではなく、十年先にも機能する記録として引き継げるか。思考の解像度を極限まで上げ、戦略的に打席に立ち続けなければならない。

のんびり構えている暇などないのだ。こうしてキーボードを叩き、思考を巡らせている間にも、日本中の厨房では新しいスープが炊かれ、麺が打たれ、職人たちの凄まじい仕事が次から次へと生まれ続けているのだから。