ちいかわと麻辣湯と本能寺
ここ最近の衝撃は、やはり「ちいかわ」だ。
本当に、クリエイティブの真髄を見せられた。
そして、「映画」というメディアの真髄も。
すごい映画は、こちらの生活の風景を変え、別の誰かの手によって、また新しい形で動き出す。まさに「本能寺の変」だ。
ハッと気づくと、まわりに「ちいかわ」が溢れていた。
本能寺の織田信長は、こういう気分だったのかもしれない。是非もなし。そうつぶやきたいほど、入念にちいかわに囲まれていた。
徳川家康のように命がけで「伊賀越え」でもしないかぎり、この「ちいかわ」包囲網からは逃げられないだろう。
しかし、こういうことが起こったときに楽しみなのは、「中国大返し」だ。
誰かがつくったものを、別の誰かが受け取り、自分のやり方で返す。さまざまなクリエイターたちは、すでに羽柴秀吉となって「大返し」をしているはずだ。我々もそうだ。一本の作品や、一人のキャラクターに衝撃を受けたら、次のものを探し、考え、つくり、やり返す。
日本の足に、躍動感が出る。
映画というものが日本のクリエイティブに与えてきた「パワー」は、こうした動きからもわかる。
そして今、空前の勢いを見せる麻辣湯。
ある機会をいただいて、我々もかなり遅れて体験させてもらった。
これもまた、衝撃だった。食事体験として、我々にとっては最高峰だった。
薬膳料理という、少し遠いところにいたヒロインが、いきなり隣の席に座ってくれたかのようだった。遠いものが、親近感をまとって目の前に現れる。それが、ひとつのシステムとして成立していることが衝撃だった。
その仕組みを日本で形にしたのが、ラーメン王として知られる石神秀幸だというのも、我々にとっては嬉しいことだった。
ちいかわも麻辣湯も、ラーメン的な要素が満載だった。遠いものをこちらの生活まで引き寄せ、自分の生活の中で楽しめる。
親近感である。
遠いものが隣に座る。近くに来る。価値とは何かを、これほどわかりやすく示す描写もない。
ちいかわには、我々を囲むだけの量と、囲まれていたいと思わせる質がある。麻辣湯はここから、そのフェーズでの激闘だ。広がっていく量と、親近感。明智光秀に親近感はあったのだろうか?
そんなわけのわからないことを考えつつ、今日もまた。
