RAMEN DIARY

毎日ちゃぶ台返し

Ramen Crazy

たとえば、一本の動画を作って出す。

取材先に時間をもらう。撮影する。撮ってきたものを見返し、使う場面を選び、つなぐ。同じところを何度も見て、切ったり戻したりする。音を整え、文字を確認し、ようやく人に見せられるところまで持っていく。

一本の動画の後ろには、そういう時間がある。こちらの時間だけではない。取材を受けてくれた人の時間も、一緒に作った人の時間もある。

完成した。出した。

翌日、AIが進化する。

昨日まで手間をかけていた作業が、目の前であっという間に終わる。次はやろうと思っていた表現まで、すでにできている。つい昨日までの制作方法を、最初から考え直したくなる。

この数ヶ月、そういう光景を何度も見てきた。

ここから年末にかけて、とんでもないことが起こるのではないだろうか。

しかも、変わるのは動画の作り方だけではない。

その動画は、記事になる。カードになる。ゲームにもなるだろう。漫画になり、アニメになる。そしてもちろん、音楽にもなる。

一軒のラーメン店を取材して、一本の動画を出す。その先に、いくつもの作品が見えてくる。

動画では短くしか使えなかった話を、記事でじっくり読んでもらえる。店や店主の特徴を、一枚のカードに凝縮できる。厨房でいくつもの仕事を同時に進める面白さは、ゲームの仕組みになるかもしれない。

そこから着想した物語を漫画にし、アニメとして動かす。その世界で流れる音楽まで作りたくなるだろう。

記事を読んで店を知る人もいれば、カードを手に取って初めて興味を持つ人もいる。ゲームで遊んでから、もとになった店の動画を見る人だっているはずだ。

一度の取材で出会った人や仕事が、違う形で、違う人に届いていく。

これは、とんでもなく楽しい。

しかし、その可能性が開く場所には、すでに作りかけの仕事がある。

編集途中の動画がある。公開を待っている人がいる。その横で、記事にしたい話が見つかり、カードの図柄が浮かび、ゲームの仕組みまで考え始めてしまう。

新しいAIの画面と、作りかけの動画と、そこから広がる次の作品。その全部が、同じ机の上にある。

途中まで作ったものを、新しい方法でやり直すのか。まず一本を仕上げるのか。それとも、次の展開まで考えて構成から組み直すのか。

できることが増えるたびに、決めることも増える。

一緒に作る人がいれば、その人の仕事も変わる。新しい方法を試している間にも、約束した日は近づいてくる。頭の中ではもうアニメが動いているのに、目の前の動画は、まだ音の調整が終わっていない。

現実や現場には、恐ろしいほどの負担がある。

先日取材をしたラーメン店の店主は、こう言った。

「ここでいかに真面目にやれるかが勝負だと思う」

そのとおりだと思った。

我々は、この「ここで」という言葉を、自分たちの仕事に持ち帰って考えている。

作りたいものが増え、作れる可能性まで増えている。その中で、一つひとつを、人に届く作品にする。

記事にするなら、その言葉の前後を確かめる。カードにするなら、その一枚に何を残すかを選ぶ。ゲームにするなら、遊ぶ人が自分で判断して面白くなるところまで考える。

漫画やアニメでは、読者や観客がその世界に入っていけるように、人物と暮らしを作る。音楽なら、どんな時間に、どんな気持ちで聴いてほしいのかを考えながら、何度も聴く。

形が増えたぶんだけ、それぞれに詰めるべき仕事がある。

そのために、取材の映像をもう一度見る。分からないところは聞く。作って、確かめて、直す。新しい道具で浮いた時間を、そこにも使いたい。

一軒の店には、まだこちらが十分に見ていない仕事も、聞けていない話もある。作品を広げていくほど、その店をもっと知りたくなる。そこで得たものが、次に作るものを変えていく。

我々は、そういう往復をしたい。

年末までに、何がどこまで変わるのかは分からない。今日覚えた方法を、来週には使わなくなるかもしれない。

それでも、取材を受けてくれた人は、その人の店で仕事をしている。我々の手元には、その仕事を撮った動画がある。そこから生まれる記事も、カードも、ゲームも、漫画も、アニメも、音楽も、まだこれからだ。

ここで、いかに真面目にやれるか。

ひっくり返された翌日、もう一度その動画を開く。次に作りたいものが、また増えている。