「不味い」の9割は、食べ手の責任である。
モスバーガーの席で、出来立ての旨いバーガーを食べた。
ソースと肉汁でいっぱいの口内を、冷えたコカ・コーラ ゼロの強い炭酸と甘みで一気に流し込もうと、ストローをくわえて勢いよく吸い込んだ。
次の瞬間、口の中に広がったのは冷たいアイスコーヒーだった。
考え事をしていたため、自分が直前にアイスコーヒーを注文していたという事実を完全に忘れていたのだ。頭と舌は、百パーセント「あのコーラの刺激」を待ち構えていた。そこへ音もなく流れ込んできた、芳醇でビターな黒い液体。
身体が、完全に「異物」を体内に入れられたかのように拒絶反応を起こした。
心臓が跳ね上がり、背筋に冷たい電流が走り、危うく座っていた椅子から転げ落ちそうになった。
毒を盛られたわけでも、腐ったものを口にしたわけでもない。ただの冷えたアイスコーヒーだ。普段なら好んで喉を潤すはずの一杯が、予期していなかったというただ一点において、とてつもなく不快で恐ろしい「不味いもの」として舌に突き刺さった。
人間の知覚というのは、つくづく生き延びるための防衛本能として設計されているのだと、身をもって思い知らされた。
脳が予測した味覚と、舌の上に落ちてきた現実の成分が狂った瞬間、太古から受け継がれてきたセンサーがサイレンを鳴らす。「これは異物だ」「毒かもしれない」。その冷酷なまでの反射スピードに、理屈や教養など入り込む隙はない。
だが、この体験が暴き出している本質は、単なる生理現象の面白さにとどまらない。
つまるところ、世の中で言われる「旨い」だの「不味い」だのという評価は、作り手側ではなく、受け手である「食べ手」の側の責任が途方もなく大きいということだ。
同じアイスコーヒーであっても、アイスコーヒーを飲む気構えで口にすれば「旨い」となり、コーラを飲む口で吸い込めば椅子から転げ落ちるほど「不味い」と感じる。液体の成分も、温度も、淹れ手の技術も、1ミリも変わってはいない。変わったのは、それを受け止めるこちらの頭の中の状態、コンディション、構えだけだ。
ラーメンの現場でも、これとまったく同じ構造の悲劇が毎日繰り返されている。
「出汁が薄い」「パンチが足りない」「期待外れだった」。
そうやって安易に丼を断罪する言葉の多くは、職人の腕の良し悪しではなく、食べ手がどんな気分で暖簾をくぐり、どんな勝手な思い込みを舌の上に敷き詰めていたかという、受け手側のチューニングの狂いに原因があるのではないか。
二郎系を欲している胃袋に淡麗の塩を流し込めば、どれほど至高の出汁であっても肩透かしを食らう。仕事で苛立ち、スマホの画面に目を奪われ、心ここにあらずの状態で啜ったスープが、本質的な旨味を届けてくれるはずがない。
人間が持つ根本的な感覚は、グルメを楽しむために備わっているのではない。
ただ生き延びるために、危険を察知するための防衛装置として備わっている。
だからこそ、その本能の先にある「味わう」という贅沢な領域に踏み込むためには、食べ手の側にも相応の準備と、文脈を汲み取る知性と、コンディションを整える覚悟が求められるのだ。
料理を旨くするのも、不味くするのも、最後の一線を握っているのは作り手ではなく、丼の前に座る自分自身だ。
椅子の背もたれに身体を預け、冷や汗を拭いながら、手元のアイスコーヒーを見つめ直す。
自分の鈍さや身勝手さを棚に上げて、軽々しく「不味い」などと言い放つ傲慢さに、我々は決して陥ってはならない。
旨さを引き受ける責任は、常にこちらの側にあるのだ。
