RAMEN DIARY

不味い料理の罪人

Ramen Crazy

自らの意思で店を選べる場面において、そのすべての責任は自らにある。

もちろん、食事には銃口を突きつけられているような場面――たとえば接待など――もある。自分に選択の自由がなく、招かれた席や、出張先で一軒しか灯りのない夜は、この話の外に置く。

自らの意思で店を選べる場面において、目の前の一杯が自分の口に合うかどうか。その判定も、結果を引き受ける責任も、100%すべて食べ手にある。

これは、ラーメンをはじめ数々の現場を歩き、料理メディアやグルメ情報を観察し続けてきた我々の実感だ。だが、実感だけでは論にならない。だから筋道で示す。

一杯、一皿、一品を誠実に作ること。何を出す店なのかを誠実に示すこと。ここは本来、作り手の領分だ。仕事が雑だったなら、あるいは示したものと違うものを出したなら、それは作り手の責任……なのだろうか?

断じて違う。なぜなら、この世界には「嘘」と「フェイク」が最初から組み込まれているからだ。

ひとつ、誤解のないように言っておく。責任を負うことと、愚かであることは違う。

店の佇まい、店主の言葉、丼の写真。世の中には事前のシグナルが溢れているが、そこには凄まじい量の誇張と嘘が混じる。ましてやAI時代において、そのノイズは何百倍にも増幅している。嘘を見抜けずに暖簾をくぐってしまったことまで含めて、選択の責任はやはりこちら側にあるのだ。

食事はガチャではない。

ガチャとは、中身の見えないくじを引かされることだ。食事は違う。フェイクが入り混じるシグナルを読み解いたうえで、どこに賭けるか、そもそも賭けるかどうかを、自分で決められる。結果までは約束されない。だが、賭けは自分で選べる。

読みも、その当たり外れも、すべて自分のものだ。だからこそ、食べることは素晴らしいエンターテイメントになる。審美眼は、当たりだけでは育たない。外れが育てる。

ここで、三つの言葉を区別しておきたい。

「出来が悪かった」 「示されていたものと違った」

この二つは、作り手に向けていい言葉だ。ただし、確かな根拠が要る。

「自分の口に合わなかった」

これだけは種類が違う。店についての言葉ではない。自分の読みが外れたという、自分についての報告だ。

ところが巷のレビューやSNSでは、この三つ目がしばしば星の数と並び、店の評価として差し出されている。自分についての情報が、店の評価にすり替わっているのだ。しかも読み手は、その「自分」がどんな舌なのかを知らない。何を期待し、何が違ったのか。それが書かれていない一行は、店についても、書いた本人についても、ほとんど何も伝えない。

何を期待して暖簾をくぐったのか。どのシグナルを読み違えたのか。そこまで言葉にして初めて、外れは審美眼を一段引き上げる材料になる。そしてその言葉は、次に店を選ぶ誰かにとって、使えるシグナルになる。

食べることは、ただの消費ではない。紛れもなく、人生の選択である。

極限まで食を削ぎ落とすダイエット生活の中で、我々はそのことを骨の髄から確信した。

自らの意思で選ぶことができる文脈において、「自分の口に合わなかった」。

それは、答えではない。問いの、始まりだ。