ラーメンの文脈と無知。
町中華の暖簾をくぐり、半チャンラーメンを頼む。注文から五分と経たずに置かれる澄んだ醤油スープと縮れ麺。「早くて、安くて、気取らず旨い」。そこにあるのは日常の救済であり、誰もが共有できる明快なルールだ。
ところが、都立大学で産声をあげ、その後、三田の慶應義塾大学近くで独自の生態系を築いた「ラーメン二郎」の黄色い看板の前に立つと、そのルールは一瞬で無力化する。呪文のような「コール」、丼を覆い尽くす豚の脂とモヤシの山、黙々と麺を胃袋へ詰め込む無言の熱気。予備知識なしに迷い込んだ人間は、戸惑い、時に憤慨する。「接客がなっていない」「こんなのラーメンじゃない」と。
だが、彼らが食べているのは単なる麺類ではない。「二郎」という名の、完結した祝祭であり儀式だ。同じ小麦粉と豚骨から生まれた食べ物でありながら、町中華が「日常の安らぎ」を引き受けているのに対し、二郎は「非日常の突破体験」を引き受けている。文脈(コンテクスト)が違えば、客が求めるものも、店が果たすべき役割も、まったくの別競技になるのだ。
これを取り違える滑稽さは、スポーツの世界を見ればより鮮明になる。
手を使ってはいけないサッカー。手で扱わねばならず、抱えて走ることも許されないバスケットボール。道具でひっぱたく野球。同じ「球技」という大きな枠組みに属しながら、それぞれの競技は固有の歴史と前提の上で動いている。
19世紀半ば、イギリスでフットボールのルールが一本化される過程で、ボールを手で抱えて走る流派(ラグビー)と、足を主体とする流派(アソシエーション・フットボール/現サッカー)は袂を分かった。もしも野球の審判がサッカー場に乱入し、「神聖な球を足で蹴飛ばすとは何事だ!」と激怒したらどうだろうか。あるいは、かつて厳格なユニフォーム規定や身だしなみを重んじたオールドファンが、現代のNBAやサッカー選手たちのタトゥーを見て「不良の集まりだ」と眉をひそめたように。
知らない人間は、自分の持っている物差しだけが「普遍的な正義」だと信じ込んでいる。恐ろしいのは、悪意からではなく、無自覚な正義感から批判が放たれる点だ。「常識」という名のローカルルールを他人のフィールドへ持ち込み、勝手に反則判定を下す。
現代のあらゆる対立と摩擦の正体は、ここにある。SNSを開けば、異なる前提で生きる人々が、互いの競技規約を一行も読まないまま、相手のプレーを罵倒し合っている。相手の文脈を想像しない正義は、対話の余地を残さない。小さな違和感はあっという間に敵意へと育ち、分断という名の壁を築く。
世界から違いを消し去ることはできないし、その必要もない。必要なのは、同化ではなく「背景の翻訳」だ。なぜ彼らはボールを蹴るのか。なぜその一杯は、暴力的なまでの脂を纏っていなければならなかったのか。なぜその姿でピッチに立っているのか。
それを解きほぐし、出会う前に渡しておくこと。これこそが、情報と言葉を扱う仕事――メディアが果たすべき本来の機能だ。
背景を知ったからといって、誰もが二郎を愛せるようになるわけではない。サッカーより野球を愛する自由も、タトゥーを好まない美意識も、そのまま残っていい。だが、「なぜそうあるのか」という文脈を知った人間は、もはや無邪気に「ボールを蹴るな!」と叫ぶことはなくなる。
相手のルールを知ることは、相手に屈することではない。同じグラウンドに立ち、共に生きるための最低限の知性だ。
