26歳の原点
上岡龍太郎という芸人が大好きで、その中でも彼が遺した「26歳原点説」は、ずっと我々の心の奥底に刺さり続けている論説だ。
人間が20歳前後から26歳までのあいだに経験したこと、感じたこと、やりたいとあがいたこと。それがその人間の人生の「原点」となり、一生のバックボーンになる。40歳、50歳になってから全く新しいことなど始められはしない。26歳までに何を考え、どれだけアンテナを張ったかが、のちに力を得たときに具現化しているにすぎない、と。
これから、松戸の「らぁめん かじの葉」の取材に向かう。まさにその現場で厨房に立つ一志優店主が、今、26歳なのだ。
自分の城を持ち、自分の空間をつくり、自分のルールでスープを仕込み、暖簾を掲げる。26歳という年齢で、すでに自らの美学を丼という形あるものに昇華させ、世に問うている若き職人。その事実を前にしたとき、ふと、自分自身の記憶の引き出しを手探りしてしまう。
振り返ってみて、自分は26歳の頃、一体何を思っていたのだろうか。何に悩み、何を考えて生きていただろうか。正直に言って、ほとんど何も覚えていないのだ。
ただ目の前の仕事に追われ、何者にもなれていない自分を持て余し、どこか輪郭のぼやけた霧の中をもがいていたような、かすかな焦燥感の気配だけがある。一志店主のように、明確な「自分の帝国」の土台を築き、そこに腹を括って立っていた記憶など、どこを探しても見当たらない。
だからこそ、いま26歳という人生の分岐点・原点に立ち、寸胴の前に身を置いている彼の背中が、たまらなく眩しく、重たく映る。
彼がこの26歳のいま、何を感じ、何を捨て、どんな覚悟でその一杯と向き合っているのか。ここで刻まれる日々の手触りこそが、きっと彼のこれからの十年、三十年、そして一生の背骨を形作っていく。その決定的な瞬間に、私たちはカメラを向け、言葉を紡ごうとしている。
26歳の記憶をほとんど失ってしまった自分が、26歳という原点を生きる職人と向かい合う。この取材は、彼という才能の記録であると同時に、我々が置き忘れてきた何かを確かめに行く、不思議な巡り合わせの現場になりそうだ。
